けんぷファーにライトノベルのアニメ化の理想系を見た

けんぷファーの最終話を見終わってもしかしたらけんぷファーラノベのアニメ化の理想系では?との天恵を得たので久々にブログ更新です。


 原作付きの作品のアニメの出来が悪かったりすると良く原作レイプなどと言われますが、その例に倣えばこのけんぷファーという作品は原作との和姦。原作とアニメがいい具合に交じり合って最終的にはあの歓喜の歌が生まれたのです。


 アニメ版のけんぷファーの素晴らしさはなんといっても原作の内容の取捨選択とアニメへの最適化の巧さだと思います。実はこのアニメ原作小説8巻相当をアニメ10話にぶち込む(11話はほぼアニメオリジナル)という無茶をやっているので原作から消された部分や変更された部分が結構あります。
 何故ここまでバッサリとカットすることが出来るのか?それはアニメの製作陣がアニメを1クール勢いで押し切るのと、ライトノベルのシリーズを完結させるのに必要な要素が全く違うということをしっかり理解できていたからだと思います。それが一番顕著に現れているのは8話と11話でしょう

8話の中で雫がナツルにデートの記念品を買わせる、というシーンがあるんですが実はこのシーン、原作には無いんですよね。
そしてその追加されたシーンで購入したアイテムが

最終話でナツルの正気を取り戻すフラグとなります。

このようにアニメはアニメの終わり方のビジョンがしっかりと出来ているからこそ原作での伏線をある程度無視することが出来るのでしょう。

 
 ナツルの心情ネタは一人称でこそ映えるものだから割とバッサリ省いてみたり、刊行ペースと視聴ペースの関係でラノベだとそう感じなくてもアニメだとくどく感じそうな描写を省く、アニメならではの声優ネタを入れてみたり、終盤勢いで押し切るために白のケンプファーの性格をネタ仕様にしてみたりと随所でライトノベルの面白さからアニメとしての面白さに変換する細かい努力が伺え、本当にテンポの良い作品に仕上がっています。


なにせやたら出てきたこの臓物アニマル達、

原作だとハラキリトラとセップククロウサギ以外ほとんど出番無かったりします。


それでいて水琴がカレー好きだったり勘で佐倉邸に突入してきたり、最終話で会長がヒキニゲカバを持ち出してきたりと原作を読んでいると、「おお!ここでそのネタを引っ張ってくるのか!」とにやりとするようなシーンを挿入する原作ファンサービスが心憎い。
 
 正直こういったバランス感覚においてはけんぷファーの右に出る作品は無いと思います。


 もちろん原作をそのままアニメにする、という行為も決して悪いことだとは思いません。
しかしやはり原作の面白さをそのままアニメにするのは難しく、半端に忠実に作ろうとすると返って尺の都合で省いた部分までも「何故あのシーンをカットした!?」といった不満を受けることになります。
だからこそけんぷファーのように原作の良さを踏襲しつつその良さをアニメへと変換するために様々な工夫を凝らした作品は見ていて非常に楽しく原作ファンも初めてその作品に触れる人も楽しめるような作品に仕上がったと思います。

そしてそのアニメだからこそ出来る面白さを追求しよう!と言う形ではっちゃけたのが

歓喜の歌だと思います。
ラノベにはラノベの面白さ、アニメにはアニメの面白さを追求し続けたけんぷファーと言う作品の最終回がBGMネタをふんだんに盛り込んだ最後になったのはある種の必然だったのでしょう。
ああOPのアレンジか〜、と思いきやまさかのベートーヴェン
本当にけんぷファーは最高の作品だったと思います。